小説~神のいない大地~No.7

 半ば悲鳴を上げながら飛び起きると、全身に汗をかいていた。
 夜着がじっとりと濡れている。
 起き上がって白い布の張ってある床に手を置くと、そこも濡れていた。
 ぐっしょりとした感触が返ってくる。
 随分と寝汗をかいたのだろう。
 上にかけていた布団も、どこか湿気ていた。
「……夢か」
 両手で顔を被いながら深い息を吐き出し、ユリアスは小さく呻いた。
 何てことだと一人ごち、小さく体を震わせる。
 手に焼けただれた肉を掴んだような感触が残っている。
 ずいぶん昔のことなのに、今だに忘れられない感覚だ。
 べたりとした気持ち悪さが忘れられない。
 だが、嫌ではなかった。
 悪夢になるほどの思い出なのに、感触を厭うことはできなかった。
 降り払うことさえできない。
 自分の掌を覗き込みながら、ユリアスはかすれた笑みを浮かべた。
 汗で濡れた金の髪をかき上げながら床を抜け出し、素足で部屋を横切る。
 雨戸を開けると、どっと夜の風が部屋に流れ込んできた。
 春だというのにずいぶんと冷たい風だ。
 だが、今はそれが気持ち良い。
 空は晴れ渡り、煌々と輝く月が森の向こうに見えた。
 星が幾つも瞬いている。
 その赤や青い輝きをじっと見つめ、魔神の長は小さな笑みを浮かべた。
 ふと視線を下ろすといまだ灯りのついているティナの部屋が見えた。
 まだ起きているのか。
 それとも灯を灯したまま眠ってしまっているのか。
 ほんの少し開いた雨戸から一筋灯りが見える。
 その微かな輝きを見つめながら、ユリアスはふと目を細めた。
 どこか切なげにちらちらと漏れる光を見つめ、小さく首を振る。
 手に焼けただれた肉を掴んだ感触がある。
 乱暴に扱うと肉がずれるのだ。
 触れるのさえ怖かった。
 このままあの少女がずたずたに壊れてしまうのではないかと、酷く怯えていた。
 目に焼きつき消えない光景だ。
 昔、島の戦場にこっそり出かけていった時、見たのは実の父と見知らぬ少女だった。
 父の側にいる少女は、愛らしく綺麗な子だった。
 一目見ただけだったが、忘れられない容姿をしていた。
 彼女が誰なのかは、ずっと判らなかった。
 マリスにでも聞けばすぐに判明したことなのかもしれない。
 だが、父親がいた場所に自分がのこのこと出かけていったことを知られたくはなかった。
 何かそれはマリスに対する裏切りのように思えたのだ。
 あの炎の魔神は、長くユリアスに父親代わりとして接してくれた。
 実の父が側にいないユリアスを、本当の息子のように構ってくれたのだ。
 愛してくれた。
 慈しんでくれた。
 そんな彼に自分が父に会いたかったのだと知られるわけにはいかなかった。
 それは、あの優しく大きかった炎の魔神に対する裏切りそのものだったからだ。
 『父』と思える存在は、一人だけでよかった。
 父の側に立っていた少女を、もう一度見たのはやはり戦場でだった。
 ユリアスがやって来た当初からそこにいたのかもしれない。
 だが、その存在を認めたのは全てが手遅れになった直後だった。
 光が押し寄せ全てを焼き払おうとする刹那、彼女を見つけた。
 ユリアス同様に彼女も成長していたから、始めは誰なのかさっぱり判らなかった。
 ただ、見覚えのある子だなと思っただけだった。
 年上の女性に既視感を覚えるなど、可笑しなことだと思ったのも一瞬のことだった。
 次の瞬間にはもう彼女が誰なのかが判った。
 あの時目にした少女だと思った。
 その少女が無残に焼き殺されようとしていた。
 ユリアスが見ているその目の前で、彼女の白い肌が焼けようとしていた。
 全てが焼け爛れ、赤くなっていく。
 それを見ていて頭の奥がぱっと熱くなったのだ。
 その後、闇雲に叫び、がむしゃらに駆けた。
 地面に倒れていた少女を抱き上げ、彼女の惨状に息を飲んだものだ。
 あの娘があの光の灯る場所にいる。
 ユリアスの見つめる視線の先にいるのだ。
 少し歩いていけばいいだけだった。
 誰もその行く手を咎めることはしないだろう。
 彼はこの御館の主人であり、魔神の長なのだから。
 その絶対的な支配者がどう動こうが、誰も文句は言いはしまい。
 ましてティナは彼の妻なのだから。
 例え夜中であろうとも、尋ねていくのに不都合はない。
 あるとすれば、それはただ二人の間だけにのみ存在するものだ。
 嫌っている男が突然部屋に押し入ってきたら、あの気高い大地の魔神はどうするだろうか。
 悲鳴を上げ人を呼ぶだろうか。
 ユリアスを罵倒するかもしれない。
 案外冷たい瞳で見据えてくるだけで済むかもしれない。
 それとは逆にほんの少し前のようにおかしくなってしまうかもしれなかった。
 つい最近までティナは正気を失っていた。
 今も時々精神状態がおかしくなる。
 まだ彼女の心は落ち着いていないのだ。
 そんな彼女を無理矢理抑えつければ、それこそ発狂してしまうかもしれない。
 くつくつと低く笑いながら、ユリアスは開け放った戸に手をかけた。
 そこに身を預けるようにして体を傾がせながら、さも可笑しそうに笑い続ける。
 笑いながらユリアスはずるずると、体を下へとずらしていった。
 縁側に座り込みだらしなく足を投げだしながら、喉をのけ反らせて笑った。
 もう我慢できないとばかりに大声を上げて笑いながら、彼は己の金の髪を無造作にかきあげた。
 その手をぺったりと床につけ、その上へと倒れ込みながら光の魔神はそれでも飽きずに笑い続けていた。
 長の狂ったような笑い声に気付いた者もいるだろうが、誰もやって来なかった。
 誰もユリアスの様子を伺いにこなかった。
 御館に詰めているはずの魔神が全て息を潜めている。
 そうやってじっと己を闇に隠しながら、彼等は聞き耳を立てているのだ。
 いつ、狂人じみた笑い声がやむかと怯えている。
 いつ、逃げだせばいいのかと伺い続けているのだ。
 そんな状況さえおかしく光の魔神は腹を抱えて笑い続けた。

 床に入らぬままに眠ってしまったせいか、朝起きると腕が痺れていた。
 鏡台の前で突っ伏すように転寝していたのだが、そのうち本当に眠ってしまったのだろう。
 背中も引攣ったように痛い。
 腕を揉みほぐし軽く体をひねりながら起き上がると、部屋の入り口の方はから、はたはたと戸を優しく叩く音が聞こえた。
 ティナが目を覚ました時にも聞こえた音だ。
 誰と声をかけると、奥方付きの侍女の声が聞こえた。
 あのどこか緑がかった黒髪を持った娘だ。
 入るようにいうと、失礼しますという声と共に戸がさっと開いた。
「お早うございます。昨夜はよく眠れましたか?」
 侍女はどこか幼く見える顔をにっこりと綻ばせながら、軽く首を傾げる。
 その仕草が何とはなしに微笑ましく、ティナも思わず優しく答えてしまう。
「えぇ。疲れてたのかしらね。今までずっと眠っていたわ」
 小さく笑いながら視線を庭の方へと向ける。
 丁度、侍女が部屋の空気を変えるためにか、雨戸を苦労しながら開けている所だった。
 御館も魔神が長年棲んでいるものだけに、かなり古くなってきている。
 もう何十年持つかはしらないが、そろそろ次の移転場所を決めねばならぬ頃だった。
 あのユリアスが長となる以前から使われていた古い屋敷だ。
 前の長であるルシアを慕って、場所変えを拒む魔神もいるというが、そんな彼等の思いをあざ笑うように御館のあちこちにガタが来ている。
 侍女の開け放した雨戸を潜って縁側に出ると、ひんやりとした空気が肌に触れた。
 ぼんやりと明るいが、いまだ天の端には闇が残っている。
 東側が次第に青白くなっていくのに従って、その反対側にある空の黒っぽさと星の輝きが徐々に消えていく。
 その変化を目に止めながら、ティナは背中で揺れる黒髪を軽くかき上げた。
 この御館にやってきた当初から長かったものだが、あれから揃える程度にしか切っていないためだろう。
 もうそろそろ膝を越すかという辺りで、毛先が風に嬲られ揺れている。
 白い夜着の襟元を寄せながらティナが部屋に戻ると、侍女が待ち構えていたように手に櫛を持って鏡台の前に座っていた。
 その彼女の前に膝を付き、ティナがふっと力を抜くと、髪がぐいっと引っぱられた。
 毛先から見ている方がじれったくなるばかりの丁寧さで髪を櫛削られる。 それをティナは何の感慨もなくじっと見つめた。
 櫛が髪を根元辺りから漉くようになると、ティナもまたのろのろと動き始めた。
 どうしようかなというように視線を鏡台の前で彷徨わせ、それから仕方ないと言うように薄い色の紅を取る。
 ティナが使う唯一の化粧だ。
 御館に仕える女性は皆、白粉などを使い身ぎれいに着飾っていたが、あれはどうも真似できないことだった。
 媚びを売っているように思えて仕方がないのだ。
 美しく装っている侍女達が皆、期待するような目でユリアスを見るせいかもしれない。
 彼女達はあの長に媚びているのだ。
 着飾って賢く振る舞いながら、長の目に止まらないか、彼に求められはしないかと何時も気にしている。
 その浅はかぶりが、ティナには何とも腹立たしかった。
 あんな男にどうして尻尾を振るような真似をするのかと、苛立つばかりだ。
 ティナが紅を付けている合間に、侍女が髪をゆるく編んでくれた。
 今日は春にしては暑いですから纏めて起きましょうねと、手早く黒髪を三つに分け、てきぱきと編んでいく。
 侍女はその途中、鏡台から小さな花の形をした飾りを取っては、それを編み込んでいった。
 毛先を残して紐で結い上げた時には、髪にたくさんの白い飾りが舞い散らされていた。
「可愛らしい飾りね……」
 鏡に映った花の飾りを見つめながら言うと、侍女がそうでしょうと可愛らしく笑った。
「これ、ウォウサ様が持ってきて下さったんですよ。だから取ったりしないでくださいね。弟君が悲しまれますから」
 長くティナの側に仕えてきたせいなのか、侍女は女主人の性格をある程度把握しているようだった。
 せっかく綺麗にしたのを台無しにされたくないのか、ぴしゃりと言ってくる。
 そんな侍女の言動さえもおかしくティナは小さく笑った。
 大丈夫よと、侍女に囁きながら髪に編み込まれた花にそっと振れる。
「ウォウサがくれたものですもの。大事にしなければ」
 花は作り物ながらも、遠目には本物とそう変わらなかった。
 白い花弁が本物のような鮮やかな色彩を誇っている。
 触れる度に返ってくる冷たい感触が嘘のようだ。
 本物のようで、実は偽物でしかない飾りに、ティナは感嘆からくるため息をついた。
 ティナが鏡をじっと覗き込み、花を見つめている間に、侍女が着替えを持って着てくれた。
 その薄い浅黄色に染められた上着に手を通しながらティナはふと、何かに気が付いたと言うように動きを止めた。
 それに侍女が何かと言うように小さく首を傾げる。
 鏡台の前に立ち、袖を通しているティナの目の前で、侍女は片膝をつき、服の裾を掴んでいる。
 片腕には帯がかけられ庭から差し込んでくる光が、そこできらきらと反射していた。
 その光沢のある帯のすぐ下に見える侍女の肌が、鈍い朱色に染まっている。
「それ、どうしたの?」
 動きやすくするためだろう。
 侍女は袖を少しだけだが捲り上げていた。
 朱色に染まっているのは、その捲った上着ぎりぎりに見える辺りの肌だ。
 赤茶色で少し引き攣って見える。
 一目で火傷の痕だと判る。
 肉が引き攣っているのは火か何かで焼かれたためだろう。
 女の身には応える傷跡だ。
 ティナが視線を落とすと、侍女は目に見えてはっきりと体を強ばらせた。
 どこか怯えたようにティナを見返してくる。
 黄色っぽい瞳が僅かに濡れていた。
 その奥に何かを後悔しているような色合いが見えた。
 火傷の痕の見える袖口に手を延ばすが、彼女は何も言わない。
 抗おうともしない。
 ティナの指先が赤茶色の肌に触れても、手を払おうとさえしなかった。
 袖口をさらに捲り上げ、二の腕あたりまで引き上げる。
 そこにも火傷の痕があった。
 広い。
 腕全体の肌が醜く引き攣っていた。
 元々色白の子なのだが、そこだけがまるで異質のものに被われているようだ。
 触れて返ってくる感触も、どこかおかしかった。
 手を握ったときのような滑らかさがない。
「どうしたの、これ?」
 そう尋ねながら瞳を覗き込むと、侍女はぱっと顔を背けた。
 彼女の手から帯がずるりと床に落ちる。
 その黄色い帯を拾い上げながら、ティナは膝をつき彼女の目をもう一度覗き込んだ。
「これは火傷の痕ね。大丈夫よ。私が治してあげます」
「奥方様……!」
 はっと息を飲んだように侍女が目を見開く。
 彼女の驚きと期待に満ちた表情に、ティナはやんわりと笑みを浮かべた。 大丈夫よと繰り返しながら、年上の侍女の髪をそっと撫でてやる。
「私は本当に何もできない魔神だけども。治癒魔法は得意なのよ。火傷の痕くらいなら綺麗に消せるわ」
「でも……。無理です。そんな、何年も……。いえ、何十年も昔の傷なんですよ!?」
 一度癒されて残った傷は治らないんですと、侍女は泣きそうな声で言う。
 ティナはそれに曖昧に笑った。
 火傷の痕の残る腕を優しく掴みながら、視線を庭の方へとずらす。
「そうね。普通は、消えないわね。でも私はできるわ。火傷の痕は全部消して上げるわ……」
 そう言いながら火傷の痕に触れる。
 すっと指を動かすと、それとともに布地がはだけた。
 そうやって、見にくい引攣りが露にされていくのを、侍女はどこか遠い光景でも見ているような目で眺めていた。
 ティナがそっと上着をはだけさせるのを、侍女はぼうっと見ているだけだった。
 抵抗はしない。
 ただぼんやりとした視線でティナを見上げ、酷く不思議そうな表情を見せる。
「治すなんて……。本当に消せるんですか。でも、なんで、そんな、無理です……」
 冗談を言うくらいならやめてほしいと、侍女は憤りと怒りの入り交じった表情でティナを見上げてきた。
 真っ赤になって怒る風の魔神の侍女は、まるで手負いの猫のようだった。
 毛を逆立てて目をぎらぎらとさせている、攻撃的な愛玩動物に似ている。
 侍女の緑がかった黒髪を撫でながら、ティナは曖昧に笑った。
 掌で風の魔神の肩を撫で、その肌に触れる。
 さらさらしていて綺麗とつぶやきながら、小さく喉を鳴らした。
「別に無理じゃないわ。綺麗にしてあげられる。ただ、一つだけ約束して」
「約束?」
 ぴくりと体を震わせながら風の魔神は小さく首を傾げる。
 だがその瞳には以前、強い憤りがあった。
 警戒するように見返し全身を固くしている。
 そんな娘にティナはやんわりと微笑んだ。
「このことは誰にも言わないで。ユリアスにもよ」
「どうして……」
「だって貴方、ユリアスに私のこといつも報告していたでしょう?」
 笑いながら目を細める。
 ティナがじっと見つめている前で、侍女は最初に見せた憤りと怒りをふっと途切らせた。
 風の魔神特有の細面がさっと青ざめた。
 黄色い瞳いっぱいに困惑が広がる。
 その侍女の頬を両手でそっと包み込みながら、ティナは薄く笑った。
 目にいっぱいの光を称えながら侍女の瞳を見下ろし、彼女の鼻をつんと摘んでやる。
「怒っているのではないのよ。貴方は当然のことをしたと思っているくらいだわ。私は元々『敵』だった娘だし。いつユリアスの寝首をかくか判らない女だったものね。側にいて行動を知らせるくらい、普通よね」
「ティナ様……。それは違う……!」
 侍女が抗うように身動きした。
 その彼女の細い体を抱きしめるように拘束し、ティナは低く笑う。
「どう違うというの?」
「私はユリアス様に請われたのです。貴方を……。貴方を守ってほしいと。だから私のような上位の魔神が……!」
 叫びながら侍女はティナの腕の中で抗った。
 ぐっと体を押し返しながら、まるで子供のように激しく首を振る。
「私は監視のために貴方の側にいたわけじゃありません。貴方に仕えるために側にいるのです!」
「そうね」
「私が、ユリアス様にご報告申し上げたのは最初だけです。それも貴方が困ってらっしゃらないかとか、そんなことだけです。それ以外あの方は聞かれようとしなかった。本当です」
 ティナの束縛から逃れた侍女はまるで懇願するかのように、ぐっと体を近づけてきた。
 ティナの両手を握り締めまるで祈るように見上げながら、信じてくださいと訴えかけてくる。
 それにティナは曖昧に笑った。
 そうねと返事を濁しながら目を細め、ふっと視線を反らす。
「別にどうでもいいのよ。どうでも……」
「奥方様……」
「それよりも、今はその傷痕を消してしまいましょう。綺麗にした方がいいわ。女なのだもの。ね」
 そっと緑の髪を撫でてやると、侍女はまるで泣きそうな顔になった。
 顔をうつむかせながらまるで譫言のように、信じてください、信じて下さいと繰り返す。
 ぱたぱたと侍女のこぼした涙が床の上に幾つも零れた。
 その雫を指で掬い取りながらティナは視線を宙に彷徨わせ、ふっと目を閉じた。



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